芸術肌の人



 私は、芸術的な感覚が良くわからない。感覚って、人によって違うと思う。それを理解しろと言うのが分からない。もっと論理的に説明してほしいと思うけれど、それが芸術分野を得意にしている人には難しいみたい。それは、清水にも当てはまる事なのではないか、と目の前で繰り広げられるやり取りを見ながら思う。

「だから、この辺がかくんとしてるのがダメなんだって言ってるんじゃん、浦浜くん」
「清水さん、もう少し分かりやすい言葉で説明してくれないかな?」
「これ以上どう分かりやすくすればいいの? 十分分かりやすいじゃん」
「……だめだ、僕には分からない。なんで美術を選択したんだろう……」
 うん、浦浜くんのつぶやきは私も常々感じている。なんで美術を選択しちゃったんだろう、って。どちらにしても、今年やるか来年やるかの違いだけなんだけど。

「どうです、佐々木さん。描けました?」
「え、あ、はい。こんな感じですけど……」
 背後から声を掛けられて、静物画のデッサンをしていた私は後ろを振りかぶる。そこには、いつも眠たそうな美術の先生、望月千遥先生がいた。といっても、望月先生はあまり本名を呼ばれないんじゃないかと思う。私たち生徒は、その眠そうな雰囲気と放課後美術室で実際にうたたねをしているらしい噂から、いつの間にか「ネムリ先生」と呼んでいた。……先輩に聞いたところによると、先輩たちも同じように呼んでるみたいだから、この先生はずっとそう呼ばれてきたんじゃないかな。
「そうですね、全体的な形の捉え方は良いみたいですけど、もう少し、濃淡をはっきりさせた方が影が分かりやすくなりますね……」
「わかりました」

 流石に先生をやってるだけあって、ネムリ先生は一応、なんとなく分かる言葉を選んでくれる。だけど、根本的には清水みたいに感覚で物を伝えようとしてくる感じがあるんだ。
 私は、ふるり、と首を振って考えを追い出すと、目の前にある静物画のデッサンに戻った。

「あ、ネムリ先生! 浦浜くんの見てもらえますか?」
「清水さん、勝手に先生を呼ぶなよ」
「はいはい。どうしました?」
「先生、浦浜くんのデッサン、なんか変な感じがあるんですけど、何が変なんですかね?」
「……清水さん」
「そうですね〜」
 浦浜くんのつぶやきが聞こえていないだろうネムリ先生と清水。先生は浦浜くんのスケッチブックを覗き込んでいる。なんともバツが悪そうな感じなのは浦浜くんだ。
 見たまんまのモノを描くと言っても、それはそれなりの訓練とか習慣が必要なんだと私は思ってる。感性、って言葉でも表されちゃうかもしれないけど、浦浜くんはそういうのが苦手な部類。私とは近しい感覚を持ってると思う。

 例えば、数学が出来ない人がノートをのぞきこまれるのが嫌なように、浦浜くんはスケッチブックをのぞきこまれるのが嫌なんだと思う、な。勝手にそう思ってるだけだけど。
 私も、そんな感じだから。

「この、リンゴの上の部分がとても無機質に見えます。命が感じられないのですよ、分かります?」
「ああ、そうなんですね! 流石ネムリ先生! なんか、機械で作ったみたいな感じがするんだよね」
「……僕には花瓶とリンゴの描き方の違いが、分からないんですけど」
 ネムリ先生の一言で清水には分かったみたいだ。なんていうか、すごいな。
「浦浜くんは……全体的に計算されて描いている感じがあるのですよ」
「計算、ですか」
「そうです、パズルのマス目を埋めていくみたいに線をつないでいく。それは花瓶には適した描き方かもしれませんが、リンゴを同じ方法で描こうとすると無機質な絵になってしまいます」
「先生が言った方法で描く、以外に描き方はあるんですか?」

 聞き耳を立てていた私は、そこで自分のスケッチブックを眺めた。形を取ることは出来る。それは浦浜くんも同じだと思う。清水みたいに空間把握が苦手って人は、そのあたりが上手くいかない事もあるみたいなんだけど、浦浜くんに限って言えば、それはない。ただ、その先が感覚的な説明になってしまうから、分からないんだ。きっと。
 私はネムリ先生に濃淡をもっと出した方がいい、って言われたけど……。

「梨花、なに悩んでるの?」
「清水。……清水は描けたの?」
「うん。私はほら、こういうのは割と得意な方だし」
「そっか……」
 清水にも、得意な事はあるんだよね、当たり前だけど。それぐらいしかないのかもしれないけど。
「梨花、いまさりげなーく失礼なこと考えてなかった?」
「……別に」
「うっそだぁ! 絶対失礼な事考えてたでしょ!」
 はぁ、なんで清水は人が一生懸命デッサンしているときに限ってこんなに話しかけてくるのよ。できたなら次の課題とか他の事やってればいいのに。
「他の課題やれば?」
 自分でもちょっと冷たかったかな、って思うぐらいにはつっけどんな言葉が口をついて出てきた。清水はきょとん、と私を見ながら、くすくすと笑う。
「他の課題っていうか、次の課題は似顔絵じゃん。似顔絵は次の授業からだよ? 今日はこれを完成させるだけ」
「そう」
 得意げに話す清水って言うのは確かに珍しいけど、私は集中したいんだよ。
「で、梨花は何に悩んでるの?」

 振出しに、戻る。ああ、これは説明しないといけないじゃないの……。
 私は内心ため息をついてから、清水に影のつけ方について悩んでいるのだと簡単に説明した。

 梅雨の中休みだった青空はお昼の後に雲に覆われて、雑巾を絞ったような雨落としている。私はそんな窓の外を見ながらスケッチブックをロッカーに片付けた。今日持って帰るのは自殺行為だ。雨のせいで部活も中止になっちゃったし、そういう時は科学部に顔を出してから家に帰るのがいいかもしれない。
 美術の課題は、とりあえず影を入れ直したところで終わった。一応、完成したとみていいんじゃないか、と思う。スケッチブックの提出は次の課題である似顔絵、というか人の顔のデッサンをしてからなので、まだ私の手元にあった。

 早々に部活中止の連絡が回って来た運動部員たちはすでに教室に居ない。まだ残ってるのは私みたいにスケッチブックをどうするか迷ってる美術選択の運動部員と文化部員たちぐらいだ。
 鞄を持って廊下に向かいながら来週が憂鬱だなぁ、と思いを巡らす。廊下に出たところで、浦浜くんと鉢合わせた。
「佐々木さん、部活は?」
「この雨で中止になった連絡をついさっき貰ったところ」
「なるほどね。帰るって言っても、この雨だと傘の意味が無さそうだよな」
 そう言いながら窓の外に目を向ける浦浜くんに、私も頷いた。雑巾じゃあ物足りなくなったのか、バケツをひっくり返したような雨になっている。
「そう。それもあるから、科学部に顔出して行こうかなって」
「ああ、いいアイデアだな。僕もゲーム愛好会覗いていくかな……」
 お互いに文化部で時間を潰すことでまとまった私たちは、なんとなくそのまま廊下を並んで歩く。その時、浦浜くんのスケッチブックが目に入った。
「浦浜くんはスケッチブック持って帰るの?」
「ああ、課題が終わってないから終わらせないといけないし。……美術部がいるから美術室では描きたくないだろ?」

 確かに、静物画のリンゴと花瓶は美術室の一画に置いてある。普段は同じ美術室を美術部が使っているからなかなか居残りは難しいんだけど。確か、今日は。
「今日は美術部、休みじゃないかな……」
「そうなのか?」
「確か。さっき運動部の部活中止連絡が回って来てた時に、美術部の子が写生行けないから部活なし、って言ってたから」
 それにじっと考え込む浦浜くん。それから、私に向き向き直った。
「じゃ、僕は美術室に行くよ。できるだけ早く仕上げたいし」
「うん。ネムリ先生、さりげなく終わってないと怖いからね」
「忘れたという言葉は禁句だからな、あの先生」
 ふっ、と小さく笑った浦浜くんは、そのまま美術室に行くために階段を降り始めた。私は科学部に行くので階段としては、上に行く。

「じゃあ、浦浜くん、また明日」
「うん。佐々木さんも雨に気をつけて」

 そのまま階段を下りていく浦浜くんを見送りながら、私は浦浜くんはやっぱりすごいな、って思った。なんでもできる浦浜くんが比較的苦手なのは美術だけど、それでも終わっていないからちゃんと終わらせようとするところが、本当に真面目なんだって感じる。

 でも。浦浜くんは捉えどころがないような。松葉さんもするりと逃げていく感覚があるけど、浦浜くんはそもそも尻尾を捕まえることが出来ない、みたいな。

「言葉に、できない……」
 ぽつりとつぶやいてから、私は納得した。今みたいに、感じたことって確かに言葉にしづらい。それが、芸術家は芸術に関してこういう状態に陥っているんじゃないかな。それなら確かに、感覚的で言葉にならない事も、理解はできる。芸術肌の人たちも、実は苦労しているのかもしれない。

 伝えたいことが伝わらない。もどかしい。
 そういう思いをしているのかもしれない。少しだけ、芸術肌の人たちの話を辛抱強く聞いてみようかな、って気になった。例えばネムリ先生とか、清水とか。

 わからない、って頭から否定してたら、分からないままだもんね。



2013.4.14 掲載
2013.5 一部改稿