1.風族のリト…1



 そよ風が吹く中、1人の少年が野原に寝転んでいる。それほど大柄でもなく、だが決して小柄でもない平均的な体格のこの少年は、名をリトリムと言った。リトリムが、なぜ村はずれの人気のない草原に寝転んでいるのか。それは、まだ分からない。ただ分かっている事は、この少年が眠っているかのようにまぶたを閉じて微動だにしていない事だ。

 ふわり、とそれまでのそよ風とは違う雰囲気の風が少年リトの元に吹いてきた。まるで意志でもあるかのように少年にまとわりつく風。少年は気だるげに片手をあげると、そのまとわりついてくる風を紐解くように指を動かした。

 風族だけが使うことが出来る、風。それを自分の意志で操るには成人し、その護刀(もりがたな)を使いこなさなければならない。成人の儀を迎える15歳の誕生日までまだ数年あるが、それでも子供たちは風を操る感覚を着実に身に着けていく。それは、遊びを通じて幼少からの習慣となっていた。
 具体的な言葉を伝えることはまだ出来ずとも、雰囲気を伝えることはできる。その視点からリトのような年代の子供たちは風便(カゼノタヨリ)を自分たちの情報伝達の手段として多く利用していた。

 リトは慣れた手つきで風から手を離すと、そのまま脇に生えている草を一本抜き取る。節ごとに成長するその草は、するり、と根を地面に残して上の部分が離れた。抜き取った草をそのまま口にくわえるリト。頭の後ろに腕を回して青空を見上げながら、少年はそのまま雲を何とは無しに眺める。時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。
 仕舞には目も瞑り、風がそよそよと吹いていく中地面に寝そべり何を考えているのか。もしかしたらば寝ているのかもしれない。ただ、確かな事は、少年は待っている。それを証拠に、かすかに風が運ぶ物音には、ぴくりと体を反応させていた。

 たっぷりと時間が過ぎてのどかな空気に包まれる頃、村のある方向から風がかすかな声を運んできた。
「おーい」
 少年はゆっくりと目を開ける。
「リト〜、いるか〜?」
「おーい、リト−」
 徐々に大きくなる自分を呼ぶ2人分の声に、リトは上体を起こして加えていた草を口から吐き出す。そして、立ち上がると共に風に身を任せて、風に乗った。

 地面からわずか15ミロ程ではあるが風に乗るリト。それも風族のみができる事だった。
 
 待ち人たちがリトの目の前に着いたとき、リトはじとりと2人の事を見つめて静かに一言だけ言葉を発した。
「遅い」
「でもよぉリト、親父が手伝えって煩くてよぉ」
 少々恰幅がいい少年が口を開くと、リトは腕を組みながら口を開く。
「約束の時間を決めたのはお前だろ、トム。約束を守れないやつは信用を失う、って父さんも言ってたんだ」
「だから言ってんだろぉ。親父がなかなか家を出してくれなくて」
「それは、お前の言い方がいけないんじゃないのか? 守れない約束なんて、初めからするなよ!」
 いきなりの怒鳴り声に、トムはびくりと肩を震わせた。お調子者なのが災いしてたまに友人であるリトを怒らせてしまうトムは、すがるようにもう1人の友人に視線で訴えた。

「で?」
 トムの視線の動きに気が付いたリトが今まで黙っていたもう1人の友人、シャムに声を掛ければ、小さなため息と共に、冷静な瞳がリトを見返した。
「リトの親父さんから。コル兄さんに渡してくれ、って頼まれモノをしたんだ」
「父さんから、兄さんに?」
 しゅう、と膨れ上がっていた怒気が縮む。怒りの顔の次に現れた顔は、疑問を含んだ顔だった。
「父さんが兄さんに? 自分で渡してもいいのに、何で?」
 素直に疑問を発するリトに、シャムは預かったものを手渡す。そして小さく肩をすくめた。
「さあ、な。ボクは何も聞いてない」
 リトはまじまじと手渡された手紙を見た。普通の白い封筒に入っている手紙のようだ。それ以上眺めていても仕方がないと思ったのだろう、リトはその手紙を身に着けていた上着のポケットにしまいながら、2人の友人に向かって声を掛けた。
「兄さんを迎えに行こう。元々そのつもりだったけど、オレには他にも用事があるみたいだ」

 野原を3人の少年たちが飛び、突っ切ってゆく。先頭を進むのはリト。その後ろにトムとシャムが続く。後ろを行く2人は言葉を交わす余裕もなく、必死の面持ちでリトの後を追いかける。それでも、僅かずつではあるが、距離が開きはめていた。
「リト、少し速度を落としてくれないか?」
 ついに、シャムがリトに向かって声を張り上げた。その声に後ろを振り向いたリトは、少々バツの終わるそうな顔をしながら速度を落とす。そして後ろの2人と並ぶ位置にまで移動し、2人と同じ速度で飛んだ。
「悪い。何か気が立ってんだ。なんとなく、兄さんの事だから約束よりも早く着いてて、『3人とも15分遅刻!家に帰ってから走らせるぞ?』って言われそうで……」
 弁解の気持ちを込めて頭をかきながら言うリトに、徐々に顔を青ざめさせるトム。恰幅の良いトムはリトの兄のことを好きになりきれない理由は、このような理不尽とも取れる制裁だった。

 リトの兄、コルトはとても優秀で、兄を持っていないシャムやトムの兄代わりでもあった。そのコルトは、今は王都の騎士隊に所属している。村を離れて数年、1年に一度帰ってくるかどうか、という兄が今回、休暇が取れたから帰ると一報したのは実に数日前の事だった。それに、リトと2人の友人たちは街道と村をつなぐ小道がある所で出迎えることにしたのが一昨日。その時は一番忙しいトムに合わせて時間を設定した為、冒頭でリトが待ちぼうけを食らっていたのだ。本当は父親への土産も兼ねて森で木の実でも採って行こうと考えていただけに、少々肩透かしを食らったリトはむしゃくしゃしていたのかもしれない。
 ……最も、2人の息を上がる様とトムの青ざめた顔を見て、溜飲は下がったようではあるが。

 小道は草原の中を真っ直ぐに通り抜けて行く。彼らはその小道の上空数セロの所を飛んでいた。風族のみが風に乗り、空を飛ぶ。自らの羽で羽ばたく天族とは異なり、風族は風を作り、風と共に生活をしていた。今、リト達の過ごすこの地は、風と生の気配に満ち、平和だった。



 だが、現実には、今、世界中が戦果の中にある。それぞれの種族が自らの利権のため、あるいは己を守るために、隣国や他国との争いを引き起こしていた。
 この世界は封鎖的な世界。南と東には大海があり、北にある氷と山がヒトの行き来を制限する。西には広大な砂漠が広がり、その向こうに何があるのか、正確に知る者はいない。南には切り立った崖が多く、人は簡単には海に出る事すらままならず、大洋に出ても荒波に攫われる船が後を絶たずに出るため、近くに島があることだけしか分かっていなかった。東の海に出るには大樹海を通らねばならず、獰猛な獣が多く住むその森を通る危険を冒す者はほとんどいなかった。

 その世界に、風族・火族・魔族・天族・水族・地族がそれぞれの土地で暮らし、争っている。この争いは200年近く前に始まり、今でも小さな小競り合いが続いている。しかし、大規模な戦禍は収まりつつあり、近く和平の交渉が初めて執り行われる。その和平構築団が、この世界の中央に位置する無法地帯かつ唯一の中立地帯で会議を行うらしい。……まことしやかに、風族の間で取り交わされている噂だ。
 はたしてこの噂が真実なのか、その事実を知るものはこの村には存在しない。この村は名もない、小さな村だ。住んでいる人は200人にも満たない、こじんまりとした村である。噂が伝わるのは早いが、その真実を探るのは、生半可な事では無かった。



 リトリムの父、キイスは村のはずれで家畜を何頭か飼い、その乳や近くの森から切り出す木を売って生計を立てていた。コル、と呼ばれるコルトが都に行ってから、たまに仕送りを送ってくれることに感謝しながら、リトとキイスは2人で暮らしている。
 たまにしか帰ってこないコルに都や騎士団の話を聞くのがリトの何よりも楽しみにしている事だった。その兄が、帰ってくる。リトは空を飛びながら、はやる心を押さえつけていた。



2014.6.14 掲載