1章:妖精のルール…6



「あの方はいったい何なんですか。」
 先程場所取りをしていたテーブルに戻ってきた2人はそれぞれの夕食に手を付ける。そして夏美が中華丼を眺めながら口を開いた。
「あの方って、食堂のおばちゃん?さぁ、わかんない。」
 ナポリタンを飲み込んでから軽い調子で答える秋菜。それにぽかん、とする夏美に苦笑を送る。
「私が聞いたところによるとあのおばちゃんはこの“場”が出来たころから居るらしいよ。世界の法則からも外れた人なんだよね、そういう意味では。とはいっても、あくまでウワサだし、だれも本当のことはわからないんだ。」
「そうなんですか。」
 呆気にとられる、という表情の見本のようにぽかんとしている夏美。そんな表情の夏美を見ながらも、何を言えばいいのか思いつかない秋菜。その2人の空気が何とも気まずくなり始めたときに救世の声が2人に届いた。
「あんまり深く考えない方がいーよー。あたしたちは美味しいご飯が食べられて、それをおいしい、って伝えてればいいんだよ。」

 2人がお互いへ対応に苦心しているうちにどうやら春菜が追いついたようだ。春菜は開いていた席に鞄を置く。急に現れたような気がしたのか、夏美が目を瞬かせる。一方秋菜は慣れているのか何事もかなったかのように食事を続けていた。
「ご飯は?」
「取ってきたよ。なんとな〜くその方がいいかな、って思って。」
 言いながら手に持っていたトレーをテーブルに置く。そこにはきつねうどんとリンゴサラダが乗っていた。

「いただきまーす。」
 ぱんっ、と手を打ち鳴らしながら元気にあいさつをした春菜はすぐさまきつねうどんに息を吹きかけ始めた。あまりにも早いタイミングで息を吹きかけ始めた春菜に夏美はまたしても小首をかしげた。
「春菜は猫舌なの。」
 そんな夏美に笑いをかみ殺しながら秋菜が耳打ちする。それが聞こえたのか春菜が目だけを動かしてじろり、と親友をにらんだ。しかし、上目使いで睨まれても秋菜はどこ吹く風。我関せず、とでもいうようにナポリタンを食べ続ける。その様子に夏美もようやく気持ちも落ち着いてきたのか自分の中華丼にはしを運んだ。

 無事に春菜も合流してから夏美の肩の力が抜けたことに秋菜だけが気が付いた。夏美本人がはたして気が付いているのか。確かに、春菜が醸し出す空気は基本的にやわらかい。そんな天性の明るさを持っているのは分かっていても、少し羨ましくなってしまう秋菜だった。

 フーフーとうどんに息を吹きかける春菜を斜めに見ながら中華丼を食べていた夏美は意を決したように箸を置き、春菜に体を向けた。
「春菜さん、1つ聞いてもいいですか?」
 つるんっ、とうどんを口の中に入れた春菜は眼だけで夏美に先を促した。
「・・・。今日は、授業の途中からどちらに行かれたのですか?」

 秋菜は内心大きく頭を抱えた。たとえ秋菜や春菜の行動が日常茶飯事でもまだこの“場”に来て1日と経っていない夏美は知らないことが多すぎる。さらに夏美は志希に春菜捜索の頼みをしていたではないか。まだ多くの時間を共に過ごていなくても、夏美が真面目な性格をしていることはわかる。つまり、どこにいたのかを聞かれるのはごく自然な流れであって。秋菜は内心大きなため息をついた。しかも春菜はここ数日、どうも精神的に不安定になりやすい。その理由を知っているだけに秋菜もやりきれないもやもやを抱えていて、その中でこの質問。(春菜が冷静さを保っていられるか、が鍵を握りそうだ。)秋菜はそう結論付けた。

 さてどうしたものか・・・、と秋菜が春菜を見るともぐもぐとうどんを普通に咀嚼している。ごくん、と飲み込んでからあっけからんと口を開いた。
「今日は音楽室にいたよ。」
「そうですか。」
 春菜は文面通りの質問に文面通りの答えを返す。そしてそれを受けて夏美も淡々と返す。春菜に質問の深読みを求める方が間違っているのだろうか、とちょっと考える秋菜。しかし、さすがの春菜でもわかっているはずだ。つまり、彼女は意図的にはぐらかしている。
 ただ、それを分かっていながらも夏美がそのまま引き下がるとは到底思えなかった秋菜はナポリタンを口に運びながらも2人の様子を眺めていた。
 案の定、中華丼を再び口に運んだあとに夏美が口を開いた。
「春菜さんは・・・よくサボるのですか?」

 今度こそ春菜を取り巻く空気が固まった。ぴきり、という音でも聞こえてきそうな雰囲気だ。春菜から出てくる感情、それは怒り。それなりに長く共にいる秋菜が気付かないはずがないほどに怒りがにじみ出ていた。ちょうどうどんを食べようとしていたのかうつむいた春菜は何も言わずに握りこぶしを作って怒りに震えている。そしてキッ、っと夏美を睨みつけ今にも怒鳴りつけようと口を開きかけた時、静かな声が春菜の耳に届いた。
「春菜。」

 春菜はゆっくりと、一回大きく深呼吸をする。そしてフォークを置いて春菜を眺める秋菜をひた、と見つめ、口を開いた。
「何、秋菜?」

 常のような明るく、軽い口調ではなく何かを抑え込んだような低めの声を出す春菜の様子に、傍観していた夏美は眼を見開く。それでもそのまま成り行きに任せたのは今のタイミングで声をかけるのは得策ではない、と感じたからだろう。
 

少しは落ち着きを取り戻したらしい春菜の様子に秋菜は軽く安堵に胸をなでおろす。まだ完全に怒りが消えたわけではないみたいだが、それでも話を聞くくらいには冷静さが戻ってきたようだ。
「冬美の二の舞になるよ。」
(冬美・・・?)夏美には初耳となる名前だった。

 秋菜が淡々と発した言葉は短いなりにも春菜には響いたらしい。ギュッと目をつぶった後にほう、と息を吐き出す。そして秋菜を見て軽く頷いた後に再びきつねうどんに向かい合った。
夏美は「冬美」という言葉を自分の記憶にとどめておく。聞きたいことの1つとして、だ。しかし彼女にはなぜ春菜があそこまで怒ったのか、まったく見当がつかない。確かに「サボり」と言われたくはないかもしれないが、夏美にとってはレッキとした「サボり」だ。そうは思っていてもせっかく秋菜が春菜の怒りを抑えてくれたのだから、ここは従っておくべきだろう。

内心首を傾げながら夏美も中華丼に戻る。そして春菜もうどんをすすり始めた。
そんな夏美を見てか、秋菜が夏美に向かって口を開いた。
「聞きたいことがたくさんあると思う。でもさ、その疑問は待っててくれるから、待っててくれないご飯の方を先に終わらせよう。」
 こくり、と小さく頷く夏美に満足そうに笑顔を返しながら秋菜と春菜はどうでもいい内容についてしゃべり始めていた。

春菜はそそくさと食事を終えると秋菜に何か耳打ちをして食器と鞄を持って席を立った。
「じゃ。」
 ひらり、と手を軽く振ってから先に食堂の外へ歩いていく春菜を見送ってから夏美はようやく口を開いた。
「あの、秋菜さん。」
 今まで無意識のうちにしゃべっていなかった夏美はおもむろに声をかけた。
「ん?何?」
 秋菜自身、すでにあらかた食事を終えた身でお茶を飲みながら夏美の方を向く。
「春菜さんは?」

 秋菜の予想通り、夏美は春菜の所在を聞いてきた。
「お風呂。大浴場に行く、って。夏美はお風呂どうする?寮のフロアにもお風呂はあるけど、大浴場の方が広いんだよね。」
 夏美は即、どちらにするかを決めていた。
「それじゃあ大浴場に行きたいです。温泉なんですか?」
「温泉じゃないと思ったけど。でもおっきいお風呂っていいよね。」
 そういいながら秋菜は食事のトレーを返却口に返そうと立ち上がる。その様子に夏美はあわてて残っていたカットフルーツを口に入れた。



2012.3.9 掲載