3章:“狭間の場”という事…5



 夏美はその日、教室にたどり着いてからぼんやりと外を眺めていた。教室から見える空は、なじみ深い青い空。だが、夏美は本当の空の色は赤黒い色であることを知っている。
 それでも、教室の自分の席から、ぼんやりと外を眺める。校庭の先に見える校門のあたりを眺めている時、夏美は自分の目を疑う存在を見つけた。

 がたり、と椅子を蹴り倒すように立ち上がり、窓に歩み寄り吸い付くように両手をあてる。そして、その存在を凝視した。そこには。
 そこには、いなくなったと思っていた1人の友人の姿があった。1番初めに、探していた友人の1人の姿が。探していたのだが、その行方が知れる前に自分が世界に囚われてしまい、結局行方が分からなかくなっていた友人が。そうだ、自分の他にも2人の友人たちがここに捕まっていると妥当ではないのだろうか。彼女たちは、と夏美は今の今まで忘れていた事を考える。

 ―どこで、何を、していたのだろうか。

「美香、さん……っ!」
 夏美は言葉を零すと、そのまま身を翻した。慌てて教室を出ようと教室の机といすを押しのけるように動く。それをクラスメートは驚きに満ちた顔で見つめた。
「ちょっと夏美、どうしたのよ」
「ごめんなさい、冬美さん。今お話している場合ではないのです」
 冬美が思わず呼びとめると、必死の形相で夏美が答える。そして、彼女はそのまま教室の外へと向かった。

 夏美は、空気がまとわりつくのを感じていた。重くのしかかるような空気の中を、必死に両手で掻き分けるように、道を作るように外へと行こうとする。ねっとりした空気がに、行かせたくないとでもいうかのように吸い付く空気に、夏美は息苦しさも感じた。
 違うと、自分はあの友人のところに行くのだと夏美は心の中で訴える。あの子は、美香さんは、今までどこにいたのか、それを聞きたいのだと。この“狭間の場”の謎に、迫れるのではないかと。そう、夏美は考えながら足を前に進める。だが、教室の空気は、戸口に近づけば近づくほど重くのしかかった。まるで。

 ――まるで、世界が行かせまいとしているかのように。



 冬美はその日、教室に足を踏み入れた瞬間に“狭間の場”が終焉に向かっているのだと、はっきりと認識した。それはつまり。このクラス、学校とも別れなければならない事を示している。
 その日の冬美には、窓の外の空が本来の「赤黒い空」に見えている。つまり、そういう事なのだ。

 ―今日、世界が終わりを迎える。

 妖精界が終わり、世代交代が行われ、新しい妖精王と属性主達が新たなる世界の中心になる。そして世界を再構築する。
 冬美は直感的にそう認識する。そして同時に、自分が妖精界に行くことになるのだ、と言う事も。
 そして、このまま学校内にとどまるクラスメートたちは自動的に振り分けられ、目が覚めた時に人間界にいるか妖精界にいるにより命運が分かれるのだろう、という事も漠然と悟った。
 冬美は、春菜に別れを告げられない事だけが心残りだった。春菜は教室に着くと共に、弾かれたように別の所に行ってしまった。秋菜も世界の終わりが今日であると勘付いているはずである。だが、その終焉の時に親友の後を追ったのだ。それが、秋菜の出した答えなのだろう。だからせめて、自分は付き合いは短いもののそれなりに心を傾けた友人には別れを言おうと思っていたのだ。その時に夏美が動き出したのだから驚いた。

 それは。夏美がそのまま振り分けられることを拒んでいるようで。世界の意志に、反旗を振りかざしているかのようで。
 まるで。

 まるで、全てを「無かったこと」にはしたくない、とでも言うように。

 冬美には、夏美が人間界に帰ることになるのは見え切っていた。そして、直感的に、このまま学校にいると自動的に振り分けられ、“狭間の場”(ここ)での記憶は「無かったこと」になるのだと理解する。自分も、“狭間の場”(ここ)での友人達とのやり取りは記憶から拭い去られるのだと。
 そして、夏美が無意識にそれに抗おうとしているのだと。

 普段は穏やかな顔を必死の形相にして教室の外に向かおうとする夏美に、冬美も立ち上がる。動くのもおっくうになり始めているが、それとこれは、違う。
 最後の人間らしい感情かも知れない、と冬美は小さく笑った。
「最後に友達を助けることぐらいしても、いいじゃない」

『力、貸そうか?』
『今ならまだ、手伝えるよ』
『願いを叶えたいの?』

 ぽわり、と3つの白い光が冬美の前に現れる。世界の終わりで妖精が死ぬわけではない。だが一時、深い深い眠りにつくのだ。目が覚めたら新しい妖精王と属性主達がいる……それが妖精界なのだろう。その、眠りに着く前のこの瞬間。冬美の願いに応えてくれた3人の妖精たちに冬美は大きく頷いた。
「夏美を、この学校から外へ。わたしも行くわ……思い出を、残したいから」

 実際にそこまでの事をしっかりと認識した冬美の力の大きさを知る妖精たち。その事は普通は気が付かないのだ。……かつて、この学校に通ってその事実に気が付いた少年少女たちは皆。
 皆、あとから世界を背負う存在になった。未来の属性主、だろうか。王ではなそうではあるがそれならば、と。妖精たちはすいーと動く。

『空気を軽く』
『外へ』
『冬美さまの、お友達を』

「ありがとう」
 そう言うと、冬美は夏美が感じているだろう空気の重さをまったく感じることなく動く。風を司るヴィーナスの卵、とでも言えるならば。空気を操るのは容易い。夏美の事を見失わない速度で、自分の体が徐々に重くなるのを感じながら、冬美は夏美の後を追った。



 夏美は重たい空気をかき分けながら教室の外へと向かう。もう少しでドアだと、息をするのも辛くなるほどの空気の中で思うと、すいー、と白い光の存在が自分の目の前を横切った。
「妖精、さん……!」
『冬美さまの願いなの』
「……っ!冬美、さんの」
『外へ』
『今のうちに』
『私たちが、眠りにつく前に』

 夏美はその時初めて妖精たちが眠る事態が起ころうとしているのか、と理解する。いつだったか妖精たちは世界の森羅万象の一端を担ってると聞いたことがある。授業で学んだのかもしれない。だがそれはつまり。彼らが眠りにつくという事はこの世界の森羅万象が一度止まることになる。
 それに、夏美は言いようのない不安感を覚えた。自分が感知しえないところで物事は、着実に動いている。

 だが、夏美は歩みを止めなかった。今ここで立ち止まってしまっては美香と呼んだ友人の元にたどり着くことはできないだろう、と思ったからだ。だから、わずかに動きやすくなった空気で、夏美は教室のドアをがらりと開けた。

 彼女は目を見はった。教室の外の廊下には木の根、枝、幹、葉があった。柱の代わりに木の幹が。廊下のタイルのつなぎ目に、木の根が。天井からは枝と葉が。いつの間にこうなったのか、と一瞬頭をよぎったが、3つの白い光が先導するように先に動いた。
『さ、はやく』
 そのうちの一人に呼びかけられれば、夏美は動く。そして自分も願った。どうか、と。

「冬美さんにお礼を。冬美さんが私を助けてくれているように、冬美さんを、助けてください」
 3つの光を追いかけながら時より木の根に足を取られそうになりながら、夏美は願った。渾身の願いを、願った。

『あなたは、直ここからいなくなるのに』
『それでも、ヴィーナスの子を想うの?』
 呼びかけに応えた2つの緑色の光に、夏美は大きく頷いた。
「お願いします!冬美さんに、伝言だけでも構いません。できれば助けていただきたいですけど、私にそれをお願いする権利はありませんから。ありがとうございます、と。伝えてください」
 一気に言いながら、目の端で白い光の1つが点滅するのを見る。ああ、あの人は眠りに落ちるのかと思いながら階段を降りる。その階段も木の根と蔓が所狭しと敷き詰められていた。
『分かった』
『できる限りの助力を』
『『君の事は、好きだったよ、夏美』』

 そう声をそろえて伝えると、2人の妖精はすいーと夏美の前を離れた。夏美は、つ、と右目から涙が流れるのを感じる。しかし、それを腕でぐいと拭うと集中した。今は目の前にある光は2つ。彼らが先導してくれているうちに、外へ。そう、強い意志を持って足を前に踏み出した。



 冬美は廊下に吹き荒れる嵐にふう、と息をついた。そこまでして外に出したくないのか、と“狭間の場”に対して思うほどだ。それでも、何とか自分の周りだけは風を中和して一歩ずつ前へと歩んだ。
「ここでの出来事を忘れてはいけないの。わたしは、覚えておくのよ」
 空間を睨みつけるようにしながら、冬美は足を進める。誰に対して怒っているのか、理不尽に自分の記憶を消そうとしている存在に対して、だろうか。
 その時、階段に差し掛かかり、降り始めたのか背中が見えなくなった夏美の元から緑色の光が2つほど、飛んでくる。それはふいよふいよと冬美の前に浮かびながら声を届けた。
『夏美から、助力を、と』
『あと、感謝の言葉を、と』
「あら、気にしなくていいのに」
 そう言いながらもわずかに風に煽られて体が傾ぐ。それを支えるように片方の光が冬美が傾いだ側に寄った。
『残された時間は少ない』
「そうね、分かっているわ」
『だが、その残った時間を、夏美のために使うのも悪くない』
 前に居たもう1人ももう片方に寄り添い、言葉を紡ぐ。
『杖の代わりに』
『風を防ぐほどの力は無くとも、支えにはなれる』

 その言葉に、冬美は口元だけを笑顔にする。昔であれば自分の心はじんわりと暖かくなっていただろう。だが、それはもう、返ってこない感情なのだ。それに一抹の寂しさを覚えながらも冬美は頷いた。
「ありがとう。支えにさせてもらうわ」

 夏美は、校庭を走り抜ける。その森のように見える校庭の先には先程友人を見かけた校門がある。徐々に森が迫りつつあり、校門への道が狭くなっていく。その夏美を先導する白い光も、今や1つのみ。それもゆっくりと点滅し始めていた。
『あと、少し』
「はぁ、はい!」
 木の根に足を取られながら、途中で転びそうになりながら。夏美は校門を目指す。そして、先導をしていた点滅する白い光はぴたりと動きを止める。そして夏美に言った。
『ここです、ここに校門が!』
 徐々に点滅する速度が速くなっている。それを見ながら、夏美は切れそうになる息に、止まりそうになる足に叱責した。なんとしても。
「そこまで……っ!」

 夏美がなんとか校門の外に足を踏み出したとき、もう消えるとでも言うように点滅の速度が速くなっていた白い光がほ、と安堵の声を漏らした。
『冬美さまの、願いは、かなえられた』
「あっ!」
『元気でね』
「あ、ありがとうございました!」

 空気に溶けるように消えた白い光を見送った後に周囲を見回して夏美は絶句する。そこに友人の姿は無く、代わりにあるのは最初に夏美の行く手を遮った巨木、だった。
「ど、う、いう事、なのでしょう……?」
「あくまでも、ここまでしか行けないのかしら」
 夏美は背後から聞こえた声に振り向いた。そこには空気に溶けるように消えた緑色の光を見送った冬美がいた。

「冬美さん!」
「外に出て見たら少しは変わるかと思ったのだけど……おめでとう、あなたは通常ルートから外れたみたいよ」
 冬美は夏美と目の前にある風の壁とでも言えそうな突風を見比べながら言う。その口調は淡々としていた。
「冬美さん、ありがとうございました」
 頭を下げる夏美に、冬美は首を振る。
「わたしが勝手にやったの。わたしこそありがとう。それで、これからどうしようか」
「どうしましょう……?」

 夏美は巨木を見上げながら途方にくれた声を出した。



2014.10.12 掲載