3章:“狭間の場”という事…6



 その日、春菜は教室に着くと共に悪寒が背筋を駆け巡った。春菜の動物的な勘が、今日は「何か」が起こる日であることを理解する。それを理解するとともに、ここに居たくない、と思ってしまったのだ。
「ごめん、あたし、ちょっと行ってくる」
「春菜さん?」
「どうしたのよ、春菜?」

「ちょっと、保健室」
 もちろん、春菜は本当にそこに行くつもりはない。だが、この悪寒は風邪の前兆と言い訳が出来るのではないかと思いながら春菜は夏美と冬美をごまかし教室の外に出た。何の変哲もない、いつも通りの教室と廊下のはずであり、春菜にはこの悪寒の原因が分からない。ただ、彼女はなぜか「この場に居てはいけない」と感じたのだ。
「なんか、嫌な感じがする」
「春菜、どうしたの?」
 廊下に出て歩きはじめた春菜は、背後から聞こえた親友の言葉に足を止めた。

 彼女はゆっくりと振り返り、親友の顔を見る。その顔色はやはり記憶に残っている秋菜の顔色よりも悪かった。わずかに言いづらそうにしながら、春菜は口を開く。だが、その口は重い。
「何かが起きようとしてる、そんな感じがするの。あたしは、ココにいたくない……少なくとも、校舎の中には居たくない」

 秋菜は春菜の顔を見返した。視線をわずかに下に投げると、彼女の目は忙しなく動き、腕では体を抱きしめている事が分かる。無意識のうちにこの場所への何かを感じ取っているのだろう。
 そういえば、と秋菜は思い返す。春菜は元々、同じ場所に居続ける事が出来ない……つまり落ち着きが無いのだと思っていたが、もしかしたらその場所場所の良し悪しや雰囲気を感じ取っていたのではないかだろうか。可能性としては存分に考えれらた。夏美も冬美も制約は結局、自己の精神的なあるいは性質的な特徴が誇張されているのだと考える事もできる。
 秋菜はそのままわずかに頷くと、真剣な顔を春菜に向けた。
「それなら、私も一緒に行く」
「なんで?別に、あたしがどこかに行くのはいつもの事じゃん」
 そう言いながら問い返す春菜の足は、既に動いている。立ち尽くしている秋菜との距離が開きはじめようとしているところで、秋菜も足を動かし始めた。
「でも、今日は一緒にいた方が、良いと思う」

 秋菜には、徐々に……本当にわずかずつではあるが世界の色が鮮やかさを失ってきているように感じた。例えるならば、今まで見えている世界が、浅瀬の海のきれいなサンゴ礁だったが、そこから徐々に光が届きにくくなってくるような感じに。深く沈み込んでいく、感じに。その変化を、秋菜は胸のうちに留める。
 階段を降りながら、秋菜は直感的に感じた。

 ―今日が、“狭間の場”と別れる時なのだと。

 秋菜は胸の中でそっと、ため息をついた。春菜には見えていないはずだ。見えていないはずなのに分かっているかのように先へ先へと急ぐ。秋菜の目には、階段の窓から見える空が、赤黒くなっていた。
 “狭間の場”と別れるという事は、つまり春菜をはじめとした友人達と別れる事を意味し、それまでの事は「無かったこと」になるのだ。それを、秋菜は悟った。だからこそ、自分がここで春菜を追いかけた事にも納得できたし、「校舎にいたくない」と言った春菜の事も理解したのだ。
 校舎の中にいたら、確実に記憶も何もかも失われ、神隠しにあっていたかのように突如として人間世界に戻ることになるだろう春菜と、それまでの記憶も何もかもを失くして妖精界に今まで居たかのように生活を始める秋菜がいるのだろうと。

 だが、春菜は。
 それに抗うように、校舎の外へ外へと動いていた。
 だからこそ。

 秋菜も、春菜の事を忘れたくないと、強く思ったのだ。今まで些細な事を通して積み上げてきた記憶を、失くしたくないと思ったのだ。
 秋菜の視界が濃い青の、光がほとんど届かない海の色に染めあがる時、春菜は校舎の外へと出る扉を開いた。

 春菜は校舎の中を移動しながら、徐々に周囲の空気が熱くなってきているように感じた。炎にだんだんと近づいていくような。その感覚が、より彼女を先へ先へと促す。嫌な感じから始まったそれは、完全に焦燥となって春菜を支配していた。
 春菜には、何が起こっているのかは分からない。ただ、1歩後ろを歩く友人の顔色が、セーラー服の袖口から見えている手が、呼び止められた時よりも青白く、血の気が引いている気がしたのだ。
 
 春菜にはそれで十分だった。自分が感じている焦りの正体は、何か分からないけれど。それでも、この状態の秋菜をそのままにしておくよりは良いと、そのまま歩く。本当は手を引きたいのだが、それは阻まれた。なぜなら。

 ―秋菜が体温を失っていくのであれば、春菜は火に近づきすぎて熱くなったかのように、汗を流し始めていたのだから。

 階段を降り切り、昇降口へと進む。春菜の目の端には、ちろちろと燃える炎が見え始めていた。ますます焦燥感を募らせながら足早に扉へと足を進め……赤く燃え盛る炎が視界を占めると同時に、扉を開いた。

「秋菜!」
 一歩遅れていた秋菜に向かい手を差し出す春菜。春菜の顔は上気し、赤くほてりながら汗を零している。対して秋菜の顔は唇は紫色になり鳥肌が立ち、色味を失っていた。
 特に言葉もなく、春菜が差し出した手を握ると……秋菜は、確かにそこから温かさを感じ取ったのだ。
「春菜、温かい」
「秋菜、冷たい。きもち〜」

 2人の視界には今、お互いの存在が海の青と揺れる炎で見えている。春菜の左側には凍えるような寒々しい海の中が広がっており、秋菜の右側にはゆらゆらと揺れる炎があった。2人はそのまま目を見合わせて、校舎の外へと出る。そのまま、校門へは行かずに校舎の外にあるベンチへと向かった。

 手は離した今でも、並んで歩く。今、灼熱の炎から春菜を守っているのは秋菜の水で、凍えるような水から秋菜を守っているのは春菜の炎だ。お互いの属性が反応し合い、水と炎のせめぎ合いが行われていた。
「……これが、何を意味するのか、秋菜には分かる?」
 ベンチに座りながら春菜が問えば、秋菜は多少血の気が戻った顔で目をぱちり、と瞬かせた。
「“狭間の場”が終わろうとしている、かな。まだ漠然としか分かってないから」
「そっかー。でも……そんなに世界の意志は、あたしたちをここに残しておきたいのかな?」
 今は秋菜がいるから平気だけどさー、と続ける春菜に、秋菜はうん、とわずかに頷いた。
「私たちの行動は、多分、完全なるイレギュラーなんだ」
「イレギュラー?」
「普通の行動じゃないって事」
「ふうん。普通だと何、教室に何も気づかずに居て、いつの間にか“狭間の場”が終わるって事?」
「……多分」
「へぇー、そっか。じゃああたしたちはこれからどうなるの?“狭間の場”が終わった後もここに居れるのかな?」
「それは……」

 わからない、と秋菜が答えようとした時。彼女の視界に緑色の髪がたなびいた。凍てつく海の中の世界を濃い緑の髪が横切る。直接校門の方を見えているわけではないから、秋菜はこれも何か、人間の及ばない所での現象が原因だろうと彼女は考える。そして、秋菜はすくっとベンチから立ち上がった。
「秋菜?」
「夏美が校門を目指してる」
「え!?なんで分かるの?」
「何でだろう、でも分かる」
 へぇ〜、と感心する春菜も立ち上がり、校門の方を向いた。
「冬美もいるね」
 視界の隅を通った桃色の髪の毛に、秋菜はつけ加えると春菜は秋菜の顔を、驚きに目を見開きながら口を開く。だが、そこにあるのは、確かな確信だった。
「行こっか」
「うん」

 2人は連れ立って校門へと歩いていく。上がる体温を冷やしながら凍える体温を温めながら、2人は歩いた。校門の先に確かに夏美と冬美の後姿を見た時、ほっと息を吐いたのはどちらだったのか。隣を歩いているだけなのに、何も話さないのに2人は分かっていた。これが。

 これが、2人でいる最後の時間になるのだろうと。

 話すことはいつでも絶えない。だからそれでも、限りある時間に詰め込むことはできない。突然、別れがやってくるだろうことは秋菜は分かっていたし、春菜も感じていただろう。だがそれでも、彼女たちはそのままの在り方である事にしたのだ。

 校門を通り過ぎると、春菜の目の前には炎の壁が広がった。
「うっわぁ……」
「春菜さん!」
 春菜の声に前を見ていた夏美が振り返る。そして冬美もゆっくりと振りかぶった。

 かちりと視線が絡まる冬美と秋菜の視線。2人とも自分たちを含め、4人が通常のルートを外れたことを、再度認識する。つ、と視線を先に外した秋菜の目の前には、逆巻く滝が映っていた。



2014.12.13 掲載