4章:人間であるという事…1



 ぱっ、と夏美は目を開けた。
 彼女の目に飛び込んできたのは、霧のような靄のようなものが全体を覆っている、泉のある風景のようだ。泉の端まで見えてる訳ではなく、泉であると判断したのもその湧き出る水の音を捉える事が出来たから。小さく、それでもこぽこぽと湧き上がる泉を見下ろしながら、夏美はぱちりと瞬きをした。

 あまり視界は鮮明にならない。それに短く息をついて自分の視点が泉にずいぶんと近い事に気が付いた。そして、そっと手と視線を自分の体に沿って下ろす。そこにあった感触は、草原のそれだった。
「どういう、事なの……?」

 ゆっくりと立ち上がる夏美。それに伴い泉の水面が遠ざかる。そして夏美は、完全に立ち上がってから上を見上げた。
 そこには乳白色の何かが天空を覆っているように見える。
(あれは、何?私は、今、いったい……?)
 見上げた後、夏美はそのままぐるり、と体ごと回転させて周りも見回した。

 しかし、徒労に終わる。泉以外には草地があるようだ、という事だけしか分からない。泉も見えている範囲では、という事だけだ。背後も乳白色の靄のようなものに覆われている。木立などの影も見えなかった。

 夏美は猛烈な孤独感に襲われる。自分がいるのがどこなのか分からない、自分の存在が正しく「在る」のかすら、確信を持てない。ぎゅう、と自分の事を抱き込みながら、膝を折る。しゃがみ込み、丸くなりながら、夏美はまぶたを降ろした。
(私は、信じるしか、できない。けど、誰か……)
「誰か、いませんかー!?」
 うぉん、と反響するようなエフェクトを伴いながら、夏美の叫びが木霊した。

 はっ、と春菜は目を開いた。
 そのまま周囲を見渡す。視界は全体的に白っぽく霞んでおり、自分の手すら碌に見えるモノじゃない。
 春菜は自分が座っている事に気が付いた。足が片方、しびれている。

「よいしょっと」
 歩き回るにしても、足のしびれをなんとかしなければ立ち上がることもままならないだろう。春菜は掛け声と共にしびれた方の足を前へと伸ばし。

 ぴちゃん

「うひゃあ冷たい!」
 慌てて足を上へとあげた。
(水が、ある……のかな?)
 思いっきり足を水たまりか何かへと落としてしまったようだ。自分の手も朧気にしか見えない今、春菜は自分が泉に足を突っ込んだなどと思考は回らない。そういえば自分が据わっている所もわずかに湿気を含んでいるようだ……と気が付き、地面に手をついて少し後ずさりをした。

 草原らしく、手に触れる草の感触がとても心地よい。後ずさりをして足を降ろすと、そこは地面で春菜はわずかに安堵した。しびれた足が元に戻るのを待ちながら、春菜は改めて自分の周りを見回す。乳白色の霧……だろうか、に彼女は包まれているようだ。
「ここ、どこ?」
 思考が正常に働きだしたのだろうか、春菜はぽつりと疑問を零した。
(それに、みんなはどこ?)

 軽く足を左右に振ってしびれが取れたことを確認すると、春菜は立ち上がった。ついでに上空を見る。そこも乳白色の何かに覆われていた。春菜の見えている距離は狭い。だからこそ、春菜はゆっくりと足を踏み出した。一歩ずつ、先程みたいに泉がある可能性を考慮しながら、確認しながら足を踏み出す。方向は、先程の泉を向いたままだった足を90度回転させて動かす。まっすぐ数歩行けば先程の水に突入する事はよく分かっていたからだ。

 足元の感触からは草原が続いている。春菜はその事実に驚き、何かを感じながらも、大声で呼ばわった。
「誰か――!いませんかー!!」

 夏美は、あまりの心細さに膝を抱えて涙をこらえる事が出来ずに泣いていた。声も出さずに、そのまま、感情に任せて涙を流す。前に1人になって他の人には捜し歩いたことはある。この“狭間の場”に来た時だ。だが、あの時は「見えていた」。今は泉と草原がある事以外は乳白色の靄に包まれて分からない。
 先程まで春菜と共に居たはずだ、と思い立ったとき、それまで風一つ吹かずに動かなかった空気を震わせた「何か」を感じた。はっ、とその方向を見る夏美。涙はまだ乾いてはいないが必死にその方向を見やる。何か、何かが。

 かすかに、本当にかすかに。夏美の耳は誰かの声を聞いた。
「ここにー!ここに、います―!!」
 向こうが探しているならば、自分はあまり動かない方がいいだろう。そう思いながらも夏美は立ち上がって呼ばわった。自分以外の誰かがここに居る、それを感じ取れただけでもこれほどまでに勇気が出てくるのか……と半分他人事のように感じながら。それでも必死に。

「誰かー」
 かすかな声は確かに、大きくなってきている。聞こえる。
「ここにー!!ここに、います!」
 大きく声を出しながら、両手もぶんぶんと振り回しながら、夏美はその声の方へと向けて歩き出した。

 少し行くと、そこには小さな小川……にもならないほどの水流があった。泉からの水だろう、と夏美が思いながら近づくと、その水流の向こう側は真っ白だ。何か物陰が見えるような感じは無い。まるでその水流から先は見てはいけない、とでも言われているように。
 だが、呼び声はその水流の反対側から聞こえてくる。

(どうしよう……)
 見えない水流の向こうへ行こうかと一瞬考えた時。
「夏美!!」
 声の主が自分の名前を呼んだ。その声から相手が春菜であると認識する。
「春菜さん!?」
「待って、そっちに行く!そっちの方が見えるみたい。こっちに来ちゃダメ!」
 まだ声が遠い様に聞こえるが、春菜の方から夏美は見えているのだ。だから彼女はそこで立ち止まって待った。ごし、と流れていた涙も拭う。そうしていると、夏美のすぐ隣に春菜が白い乳白色の壁から出てくるかのように、にょおんと水流を飛び越えて現れた。

「春菜さん……!」
 夏美は思わず、春菜にしがみつく。そして。
「良かったです……一人になってしまったかと、思いました……」
 先程止まったはずの涙を、安堵の涙をこぼした。

「そうだよね、よかったよ、ホント」
 春菜も安堵の息をついている。夏美がいるところの方が見えるからだ。自分の手も見えないか、と言うほどに白い世界だった。流石の春菜も、恐怖を覚えていたのだ。……だが、その場に留まる事をせずに歩き出した結果、夏美と合流し……今ここに、夏美と共にいる。
 春菜は力が抜けたのかへなへなとその場にへたり込んだ。

「ここ、どこだろうね?」
「……本当に」
 ぐるぐると見回しながら春菜が問えば、春菜と一緒に座り込みながら夏美も相槌を打つ。どこなのだろうか、皆目見当はつかない。しかし。

「あ、夏美!あれ!」
 春菜が泉の方を指差す。そちらを見た夏美は、その光景に息をのんだ。
 泉の上に6つの光が宿る。白、青、赤、緑、茶……そして、金。金色の光が他の5つよりも上に位置し、一気に明滅した。ぱっ……ぱっ…ぱっと光瞬く速度をどんどん早くしながら徐々にその光の大きさを大きくしていく。それに倣うように他の5つの光も光り輝きながらその光の強さを変えていき―。

 その場は一気に明るい光の渦に包まれた。



2015.4.12 掲載