4章:人間であるという事…3



 春菜は細やかな泉の水しぶきが飛び散る中、一人の女性の元に佇む親友の事を即座に見分ける。伊達に1年以上の時間を親友として過ごしていない。そして呼びかけた。
「秋菜!」
 春菜の声に秋菜の存在に気がついた夏美も立て続けに声をかける。
「秋菜さん!」

 しかし、青い光の元にいる秋菜は、ピクリとも反応しない。彼女は、中央の方向を向いて佇んでいるだけだ。
 泉のあちらこちらから水が噴き出すが、夏美と春菜には視界を遮るものでしかない。

 春菜は、秋菜の元へ向かおうと足を踏み出す。勢いよく駆け出す彼女の後を、夏美も慌てて追いかけた。
 しかし。

 泉に足を踏み入れようとした春菜の眼に、泉を覆う薄い薄い膜が、一瞬見える。これはいったい……と思った矢先、彼女は勢いよく弾き飛ばされた。
「春菜さん!」
 大きく空中を舞って草地に転がる春菜に、夏美は悲鳴をほとぼらせる。大きく眼を見開き、ショックにわなわなと震えながらも、彼女は春菜の元へと駆けつけた。

「いっつぅ……」
 呻きながら体を起こす春菜の額に、腕に、足に擦り傷や大きな痣が出来上がる。その顔は痛みに歪められていた。
「春菜さん、大丈夫ですか?!」
 駆け寄ってハンカチを取り出し、血が滲む足にあてがう夏美。春菜も額に手を持って行き、額の様子を探ろうとする。
「水で濡らせば……」
 夏美は先ほどまで水に濡れないと言っていた事などすっかり忘れてしまったかのように泉を見る。そして、夏美はすっくと立ち上がり泉へと近づき、しゃがむとそっと水にハンカチを浸そうとした。

 彼女の目に一瞬、薄い薄い膜が見えた。そのまま手は、僅かに弾力のある壁のような何かにあたったように先に進まない。それでもしつこく押し続けると、跳ね返された。
 その反発力に自らの指を呆然と見つめた後、夏美は春菜の元にもどる。そして、春菜が睨みつける泉の様子をもう一度眺めた。

「あ、あれは……」
 水しぶきの中、秋菜以外の人影も目に入る。それを眺めていた夏美はポツリと言葉を零した。それを的確に聞き取った春菜が、自分のハンカチで額を抑えながら抑揚のない声で付け加える。その言葉には、言い表しようのない感情がにじんでいた。
「冬美に、竹中……だよ、夏美」
「そう、ですよね……」
 やはりそうか、と肩を落とす夏美。小さく息をつく彼女の横で春菜は空いた手で握り拳を作っていた。固く固く握り込むその拳の様子に、夏美も気が付く。顔を見れば、苦渋の表情が春菜の顔には浮かんでいた。

 夏美にとっては関係は薄くとも友人、という感覚ではあるが、春菜にとってはただの友人ではないのだ。それが分かっているからこそ、夏美は何も言わない。彼女は春菜と他の3人の関係を、あまり知らないのだから。それでも。

「秋菜さん!冬美さん!竹中くん!」
 呼びかけずには、いられない。いてもたってもいられない。ここで彼らに呼びかけなければ後悔する、そう直感したのだ。

 夏美は呼んだ。3人の事を。
「秋菜!冬美!竹中!」
 春菜も同じように呼びかける。大きな声で、悲痛な感情を湛えながら。

「残念だけど、君たちの声は届かないよ」
 必死な2人の事をあざ笑うかのように、のんびりと落ち着いた声が彼女たちの耳に届く。
 それに、春菜と夏美は振り向いた。

「どういう意味?」
「そのままの意味さ。私は君たちは在るだけで何もできないと言ったはずだよ。君たちは、人だからね」
 まるで、そのことが最重要であるかのようにコンロは言う。夏美と春菜はおたがいの顔を見合わせた。
「たしかに、ただ在るだけで何もできないとさきほどおっしゃっていましたが……声も届かないのですか?」
「あたしたちが何を言っても、秋菜たちは聞こえないっていうこと?」

 それぞれが口を開いて異口同音にコンロに尋ねた。それに、案内人の男はにこり、と微笑む。
「そう。君たち……まあ、厳密に言えば私もそうなんだだけれども、私たちは別の次元に存在していて、彼らの次元を覗かせてもらっているに過ぎないんだ。さっきも言ったけど、君たちは人だからね」
 そこで一度言葉を切ると、コンロは腕を組み、もったいぶりながら彼女たちの前を往復し始めた。

「君たちは人である。それは紛れもない事実。では彼らはなんなのか。……それはもう、分かっているんじゃないのかな?」
 立ち止まり、2人の少女の事を見るコンロ。それにぐっと詰まりながら、苦虫をかみつぶしたような面持ちで唸るように声を絞り出した。
「……秋菜も冬美も、竹中も。妖精に近かったんだ。だから……」
「そう!3人は妖精になる!なんてすごい事なんだろう!……近年稀なんだよ、一度に3人もの次期属性主候補が出てくるなんて」
「そんなこと!聞いてない!」

 うぉん……と春菜の叫び声が空気を動かした。
「あたしはそんなことどうでもいい。あたしが知りたいのは、何であたしたちの声が秋菜たちに届かないのか、ってことなの!」
「春菜さん、落ち着いてください」
 顔を赤くして激情のままに叫ぶ春菜の肩を抑えながら、夏美はちらりとコンロの事を盗み見た。飄々としており表情が読めない彼だが、どこかその笑顔の裏に、感情を押し隠しているようにも見受けられる。夏美にはそう見えた。何かを悲しんでいるかのように。

「ここは、妖精界なんだよ」
 ゆっくりと言葉を発する案内人に、春菜はぱちり、と目を瞬かせた。
「なんで?あたしたちは“狭間の場”に居たんじゃないの?」
「居た。確かにあの時はいたさ。でも、今は妖精界にいるんだ」
 ゆっくりと周りを見回しながら、どこか懐かしそうにやわらかい眼差しを注ぐコンロ。その様子に戸惑いを覚えながらも夏美はきゅっと手を握り込み、口を開いた。

「それは……世代交代で世界が一度滅んだからですか?」

 その質問に、コンロは寂しそうな悲しそうな顔で、頷いた。
「そう、その通り。……説明しよう、妖精界と“狭間の場”の悲しい運命を」



2015.9.4 掲載