4章:人間であるという事…5



 淡々と言葉を紡ぐ案内人に、春菜と夏美は愕然と立ち尽くした。何かをするには、衝撃が大きすぎた。
 彼女たちはこの後の世界がどのようになるのか、知らない。自分たちがどのようになるのかすら、彼女たちには分からないのだ。それを知っているのはただ一人、目の前にいる男だ。
「それは、つまり……」
 上ずりそうな声で恐る恐る具体的な内容を尋ねる夏美。だが、彼女の理知的な瞳は全てを理解している、と物語っている。その彼女の目を、少女二人の前に立つ男は、真摯な眼差しで見つめた。

「……梅野さんは優しいですねぇ。その優しさに免じて、話しましょう」
 一度口を閉じるとコンロはふいと周囲を見回した。そして泉の元にいる人物たちを見てから、ゆっくりと顔を2人の少女に戻す。その視線を挑戦的に受け止めたのは春菜で、勝気な顔が怒りか興奮かわずかに上気していた。だが、同時に。彼女はその目に、絶望も宿し始めていた。
 その様子が見えていないわけではないだろう。しかし、コンロはそんなこと知らないとでもいうようにさらりと流し目で春菜を見てから、口を開いた。

「私らは、世代交代で2つの世界が完全に離れ、間にある一種の空間が“狭間の場”になる瞬間にいると言っても過言じゃない。私らがいるのはゆくゆくは“狭間の場”になる空間、彼らが居るのは妖精界だ。でもさっきも言ったように、君たちは“狭間の場”に立ち入ることができなくなる。それが、君たちの意思で、君たちの望んだことで、君たちへの世界の答えだ」
 きらり、と目に見えない泉との境界となっている空間が揺らめいた。それにコンロは目を細める。

「彼らが自分たちの役割を受け入れたね」
「ねえ、それってあたしたちが。あたしや夏美が帰りたいとか色々知りたいって願ったからなの?その願いが達成されるだけのポイントが貯まってたの?妖精界に行くことを願ってなかったから、願いが叶うってことが人間界に帰るってことになったの?」
 今まで黙ってコンロの言う事を聞いていた春菜が口を開く。その言葉に、案内人は頷いた。
「じゃあ、秋菜や冬美、竹中は妖精界に行く事が願いだったってこと?」
「最終的にはそういうことになるかな。僕は詳しいことはわからないけれど、多分ね」
 ひょい、と肩をすくめながら言うコンロに春菜はむぐう、と口ごもる。かわりに、夏美が口を開いた。
「あの、私達はもう“狭間の場”に立ち入ることができなくなるって……どういうことですか?」

 コンロはじっと夏美のことを見つめる。その視線に居心地の悪さを感じて夏美は身じろいだ。
「一度世界に囚われた者がその後の世界に入ることはできない。君たちはもう、“狭間の場”には入れない。だけど、世界に囚われた事実は消えず、この世界にある様々な場……世界……空間に親和性は持つようになるだろう。でも、『この』“狭間の場”には来ることはできなくなるんだ。もう、妖精界との接点であった“場”には、来れなくなるのさ」
 一度言葉を切り、ゆっくりと唇を舐めると、案内人はさらに言い募った。
「それが、願いが叶う事に対する、制限……とでも言えばいいのか。世界が拒絶するようになるんだ。妖精界が、自らではなく人間界を選んだのであれば受け入れない、って事なのかもしれないね」
「弾き返されるのですか?」
「そう、先ほどもあっただろう?あれのように」
 口をつぐむ夏美に、コンロはさらに言葉を続けた。彼の口が若干早口なのは、気のせいだろうか。

「それに加えて君達がいても感知されないし存在すら認識されない。世界に拒絶されるということはそういうことなんだ。だから君達は人間界に戻るから、その運命を受け入れなければならないんだ」
「なんで?!」

 春菜の声が木霊した。その声には感情が籠っている。理不尽な知らせに信じたくないという気持ち。今までのすべてを覆された怒り。友人に会えなくなるという、悲しみ。様々なものが詰まって、その声は絞り出されていた。
「なんでさ!あたし、秋菜や冬美とまだ一緒にいたい!」
「無理さ。ほら……僕と君達の間にも、膜が出来始めている。そのうちに声すら届かなくなる」
 そうコンロに言われて夏美は目を凝らし、はっと息を呑む。彼女の目は確かに、キラキラとわずかに光る何かを捉えていた。
「嫌だよ、こんなのないよ!きちんとお別れすら、してないのに!」

 春菜の声が響く。その空間で春菜は……叫んでいた。涙をこぼすまいと気丈に立ちながらも、叫んでいた。小柄な体全体を使って、あらんかぎりの力で。
 コンロを睨みつけるだけでは足りないのか、彼女は走り出す。しかし。

 彼に触れる前に春菜の手は弾き返された。
「言ったじゃないか。松葉さん、無理だよ。私は“狭間の場”から出る事はない。君達はもう、“狭間の場”に足を踏み入れることはない。つまり、私達も彼らのように、お別れってことさ」
 どこかくぐもって聞こえるコンロの声に春菜はその場に膝をつく。そして。

「なんで、なんでさ!もっといっぱいやりたいことあったのに!もっといっぱい!秋菜や冬美と!」
「いっしょに過ごしたかったのに!」
 あらん限りの声で叫ぶ春菜の悲痛な慟哭は、コンロの耳には届いていた。しかし、それがさらにもう一つの世界の壁に隔たれた彼らの耳に届くことは、ない。
 春菜がコンロの方を向いて睨みつけながら感情を露わにしている空間に、夏美の叫び声も響いた。
「春菜さん!」

 夏美は自分よりも小柄な春菜の腕を抱き込む。春菜はそれでも前を向いていた。振り返りながらもコンロの様子をうかがう夏美は、小さく震えていた。それでも、泣くことは無い。
 彼女たちの後ろの地面がどんどん崩れ落ちていく。そして、コンロのいる空の色が赤黒く変化していく。
「その時」は確実に近づいてきていた。

「秋菜ああああ!」
 大声を張り上げる春菜。夏美は目をぎゅっとつむり、春菜にしがみついた。
「あたしは!あたしはいつまでも、あんたの友達だから!あんたがどこにいても!友達だからね!」

 春菜は泣いていた。涙声で呼吸が苦しくとも、必死に声を張り上げた。しかし、コンロも顔を二人に向けているだけで目が合わない。何も反応がない。それでも春菜は崩れ落ちていく世界にしがみつきながら、両手で地面を掴みながら叫んだ。

「あんたがあたしを忘れても!あたしは忘れないから!いつまでもー」
 最後、崩れる地面と夏美と共に虚空へ放り出される時、春菜はそれまで何も反応を示さなかった秋菜が、自分の方を向いた気がした。そして唇が何か動いたように思った瞬間。

『私も、春菜。忘れないよ。ずっと友達だから』
 青い光が一筋、耳元にかすかな音を運んできた。それに大きく目を見開き、言葉を紡ごうと口を動かそうとした瞬間。

 春菜の、夏美の視界は暗闇に覆われ、瞬きをするとコンクリートで舗装された道の、街灯の下に倒れ込んでいた。

 2人の少女は生まれ変わった世界と共に、“狭間の場”を後にした。
 “狭間の場”に残るコンロは驚きに目を見開いている。それ程までに2人の少女たちの絆は強固だったのだろう。

もう彼の目にも、妖精界にある泉も、先ほどまで少女たちと共にいた草原も見えない。足元は確かに草原だが、色が違う。空の色も異なっていた。
「無事に世代交代は終わった。あとは……彼ら次第か」
 先程まで泉が見えていた方向を一瞥してから、彼はゆっくりと歩き出す。
「さて、次の生徒たちを迎える準備をしないとね……」
 そう言う彼の向かう方向には、“狭間の場”の学び舎「フェアリー・ワールド・スクール」が見えていた。



2015.10.12 掲載