5章:妖精であるという事…3



「ようこそ、新しい世界へ。生まれたての世界へ」
 その人は薄い衣を翻しながら、手を動かした。袖の布地が手の動きに合わせてひらりひらりと舞う。秋菜はじっとその人の顔を見つめながら、記憶を探った。
 良く見知ったはずの顔のように感じたのだ。どこかで繰り返し見ているはずだ、と考える。

 彼女の肌はつややかで髪の色も七色に移り変わる。マーキュリーの様に蒼と言うわけでもなく、ジュピターの様に碧と言うわけでもない。かといってサタンの様に重厚な茶色とも言えない。だが、それら全ての色彩が含まれていた。
 背中には半透明の羽も見える。羽の色はシャボン玉の様に、光の角度によって色も見え方も違った。
 秋菜はゆるりと隣に立つマーキュリーに目を向ける。そこにいる人……であっただろう妖精にも、この明るくなった世界では、羽が見えた。うっすらと、儚くもしっかりとした存在感でそこにあるのが分かる。

「貴方たちはこちらの世界に来たわ……人間界に帰るわけではなく、妖精界に。それはあなたたちの望み通りかしら?」
 あなたたち、と3人の少年少女を指差しながら言葉を紡ぐ妖精は笑みを張りつかせたまま尋ねる。それに、冬美は迷うことなく頷いた。
「もちろんだわ。わたしは妖精界に来たかった。母の手掛かりがここにあるって、確信を持っていたもの」
「お母さんって、そんなに大事?」
「あたりまえでしょう?わたしがわたしとしてここに在るのは、母がわたしという存在を良しとしたからだし、わたしがわたしでいるということは、母の存在証明になるのよ」
 やんわりと尋ねた妖精に、冬美は強い口調で返す。平坦な妖精の声と冬美の感情的な声は、相反して響いた。

 “狭間の場”で子供達が課せられる制約は、元の性質をより顕著にしたものである場合と抑圧されていた性質を顕現する場合の2通りがある。夏美、春菜は元の性質をさらに度合いを進めたものだが。

 冬美は異なっていた。
「なぜそこまで言い切れるの?」
 顔を冬美に向けながら、妖精は問う。それに冬美は、感情はないが意志の強い瞳で見返しながら言葉を繋げた。
「父親はわたしの事を否定した。わたしが父親にこれっぽっちも似ていなかったから。だからわたしは母の苗字を使っているの。人間界はわたしには優しくなかった。厳しいだけではなく、存在そのものを否定してくる場所だった。だからわたしは……だからわたしは、嵐の中で囚われた時に心の底から喜んだのよ!もうあの世界に帰る必要が無いんだって!」

 一気に振り切られた冬美の激情は、風を生む。ヴィーナスの配下にある冬美は、力の強いものの定めとして風を作り出していく。
「そう……こう言っているけど、これはあなたが望んだことかしら、ヴィーナス」
 妖精は視線を冬美の隣にいるヴィーナスへと動かした。それを受け取ったヴィーナスは目を細めながらゆるく頷く。
「ここまで慕われてしまっては、追い返すことはできません。……最後の自由な時間を、戯れに過ごしてしまったから、でしょうね」
 ヴィーナスの一言一言で空気がざわめく。草原の上を、妖精たちが走り抜ける。
 秋菜は、この時初めて光の玉ではない妖精の姿を見た。

 大きさは光の玉と同じ程度ではあるが、羽が生えているのと両手にすっぽりと入る程度の大きさ……ということ以外はまさしく千差万別であった。
 顔が人のそれではない者、足が人とは異なる者、人の姿になにやら追加で生えている者……さまざまである。一度気がつけば、それはそこかしこの草原の中にいるのだと認識出来た。

「そうね、責任は取らないと」
 実感の籠った声で相槌を打ってから、女性は志希と秋菜を見比べた。
「あなたたちは?望み通りかしら?」

 秋菜はふと考え込む。秋菜は祖母の事を探しているのだが、それがなぜ確信と共に妖精界と関係があると判断したのか、分かっていない。祖母とて、血がつながっているわけではない。祖父の後妻で、秋菜が生まれてすぐに結婚したと聞いている。祖父に先立たれてからも秋菜達と同居し続けたぐらいには皆に慕われていたし、彼女も家族であることが楽しかったのだろうと感じ取れた。
 それであれば、なぜ。理にかなっていないのに『このままここにいれば、おばあちゃんに会える気がする』と自分は感じたのだろうか……と思考を巡らせた。

「俺はおおむね望み通りじゃないかな。ここでならいくらでも寝てていいし」
 中性的な顔つきの志希は肩を竦めながら言う。
 一体どこからその思考が出てくるのか……それが理解できないといった感じの顔つきで隣に立つサタンは同じように肩を竦めた。
「……それに、俺が探していたヒトは隣にいるし」

 顔はそのまま、泉の上にいる妖精に向けながら、彼は重大な事では無いように付け加えた。
 ちらり、と言い切る志希の顔を見たサタンは、静かに彼の肩に手を置いた。

 秋菜は、じんわりとした驚きが彼女の心を支配するのを感じた。探していた。そうなのだ、彼も探していたのだ。
「探していた……」
 秋菜の呟きは、空気に溶ける。そしてそれを補足するように、志希は口を開いた。

「土砂崩れに巻き込まれて“狭間の場”に来たけど、俺はそれまでも突然失踪した父親を探していたんだ。誰にも何も言うことなく消えた人を探していた。……そしたら、いるし。ここに。だから俺はここにいる。もう別に、他はいい」
 今度はしっかりとサタンのことを見ながら言う志希に、サタンは何も言わずにただ、隣にいた。
 その無言の肯定に、冬美は目を細め秋菜はぼんやりと「羨ましい」と感じ……そのことに首をかしげた。

(羨ましい…?)
「サタンがそれを是とし、彼がそれであるというなら、私にそれを止めることはできないわ」
 2人の方を見ながら言った後、妖精は前触れもなく秋菜の方を向いた。
「それで、あなたは?」

「私は……」
 秋菜は口を開こうとしたが、考え直すように口をつぐむ。やはり簡単に言葉にできるものではない。そんな気がした。
「それよりも私は、あなたが何も言わないのは不公平だと思うけど……ヴィーナス」
 口をつぐむ秋菜の隣で口を開いたマーキュリーは、ヴィーナスへと声をかけた。
「それはわたくしも思ってましたわ、ヴィーナスさん」
 ジュピターであろう、一人で成り行きを見守っていた女性がゆうるりと口を開くと、ヴィーナスの周りの空気が動く。その表情は変化しないが、感情を表すのは彼女を取り巻く空気なのだろう。

「別に、不公平なんてないわ。だって、わたしは分かるもの」
 一瞬張り詰めた属性主たちの空気をぶち破ったのは、冬美の言葉だ。その一言に、ふうん、と志希は目を細めた。
「母さんだったヒトは、今隣にいる。そうでしょう?でもそのヒトは、今と同じ存在じゃない。だって、妖精になっているもの」
 ジュピターとマーキュリーを見ながら言う冬美に、秋菜は改めて冬美とヴィーナスを見比べた。確かに、2人は目元や顔立ちが似ている。

 その時、そっと秋菜の肩にマーキュリーの手が添えられた。
 励ますような、安心させてくれるような。幼い頃に、こうやって誰かに支えてもらったような。
 秋菜は過去を振り返りながら、気がついた。

 決して口出しをすることはなかったけれど、自分が決めたことをやるときに温かく見守ってくれていた眼差しがあったこと。迷っていると肩に手を置いて、大丈夫と保証してくれる手があったこと。こっそりと内緒話をしたときに背中を撫ぜてくれた人がいたこと。
 その人は、今隣に立つヒトが年月を重ねたらこうなるだろう顔に似ていること。
 つまり。

 ごくり、と秋菜は一度唾を飲み込んだ。
 周囲の音は遠くから聞こえているようだ。プールの中にいて、陸上の音を水越しに聞いているみたい、と秋菜は分析する。
 秋菜は、自分がその事実に本能の部分で気が付いていたからこそ、妖精界に来ることに抵抗が無かったのかもしれない、と思考がたどり着く。なぜか、水中に居るかのごとく僅かに歪む視界の中で、秋菜はゆっくりと一回瞬きをした。

「あなたはどうかしら?」
 泉の上にいる妖精が、秋菜の方を向きながら声をかける。彼女の口元は緩やかに孤を描いているが、目は凍てついてた。
「……ずっと、何で自分が“狭間の場”に囚われたのか、分からなかった。私はただ、おばあちゃんが何なのか、知りたかっただけのはずなのに。なぜ、それに疑問を感じる事も、ここにいるのも必然なのか……そう感じたのか、分からなかった。だけど」
 秋菜は幾分俯きながらも、言葉は滑らかに口から滑り出していく。そして、一度言葉を切ると、彼女はしっかりと前を見た。
「分かりました。私が知りたかった人が妖精界に居たから、なんですね。それであれば、私は妖精界と共に居てもいいと思う……それが、世界の意志ならば。私の願いをかなえる事が世界が望むことで、それに伴って妖精に成れというのなら……私は、受け入れます」

 泉の上にいる妖精に向かいそこまで言うと、秋菜は横に立つマーキュリーに向かい、微笑んだ。わずかに残った、人間らしい笑顔で。
「いいでしょう?おばあちゃん」



2015.11.25 掲載