5章:妖精であるという事…4



 マーキュリーはゆっくりと頷く。視線はあまり変わらないが、どこかその眼差しに優しさを感じるのは秋菜の気のせいだろうか。それとも、それが正しく在るべき感覚なのだろうか。秋菜にはそれを推し量ることはできない。それでも、その温かさが秋菜に自分は間違っていなかった、と確信を持たせるには十分だった。

「そう、マーキュリーも異議は無いわね?」
 疑問の体を取った確認。それにマーキュリーはしっかりと頷く。
「もともと誘ったのは私ですから」

 その言葉に秋菜は首を傾げる。その反応は冬美も志希も同じだった。
「まるで仕組んでいたみたい」
「初めからそうなるような言い方だな……」

「あたりまえだろう。おれたちは、世代交代で属性主になると分かると人間界に可能性のありそうな子供を探しに行く。その過程で実際に自分の子供を儲けるのも大いにありだ」
 今まで口を開かなかったマーズが口を開く。それにジュピターも頷いた。
「先代が崩御すると分かる20年ぐらい前かしら。それぐらいの時にわたくしたちを一堂に集めてこうおっしゃったわ。『次世代を担う者たちよ。種を探しに行け』……とね」
「今思うと、あの時の時点で分かっていたんでしょうね。……未来が」
 緩やかに眼を細めながらヴィーナスも頷く。その遠くを透明に見通す眼差しは未来をも見通せるのだろうか、と秋菜はわずかに思った。

「だから、おれたちは探しに行った。次の次……それとももっと先かは分からないけれど、未来を託せそうな子供たちを」
「あなたたち3人以外にも何人かいるわ。もちろんわたくしやマーズの見つけた“種”も」
 マーズとジュピターはそこで一度顔を見合わせ……やけに人間臭い顔で苦笑いをした。
「とはいえ、まさかあの2人がな」
「世界の摂理を捻じ曲げるほどの意志力を持っているとは思いませんでした」

「あの2人って、春菜と夏美?」
 腕を組みながら睨みつけるように言い放った冬美にジュピターは頷いた。
「ええ。あの2人もわたくしやマーズが見つけてきた種。でも彼女たちは、強い強い願いと意志を持っていたわ……だから、彼女たちと深くかかわりあったあなたたち3人もここにいる。本来ならば学校の校舎の中で生まれ変わり、新しい妖精界で目覚めるだけ、だったはずなのに」
「だが、それによってお前たち3人は、世界によって“未来を任せられる”逸材と認められたようだな」
 うん、と頷くマーズは自嘲気味に続けた。
「……必ず、そういうガキが現れる。そういうもんなのかね、世代交代ってのは」
「よく言うわ。わたくしの手を引いて校舎から飛び出したのはどこのどなたでした?」

 やけに人間味を残している2人を見る泉の上の女性の目は、話している2人に注がれている。
「おれだけじゃないだろ。美奈子もだ」
 くいっ、と顎をしゃくりながら泉の上にいる妖精を示したマーズに、少年少女は大きく目を見開いた。

 その名前を、彼らはよく知っていた。
 学校の、担任の、名前……それである。

 秋菜はまじまじと今一度、泉の上の妖精を見た。全体的な雰囲気が変わってしまったからだろうか、すぐには美奈子であると分からない。だが。
「ひどいわ、弘」
 マーズの言葉を肯定するように、泉の上の妖精が言う。
 その女性の目元を見て、秋菜は確信を持った。確かに彼女は。

「美奈子先生、だったんですね」
「恐ろしいぐらいに強い力持ってると思ったら」
「俺達、実はとんでもねー人に教えて貰ってたって事か?」
 少年少女たちは一様に理解した。彼女は確かに、彼らの担任である、と。

「そう、貴方たちの担任よ。そして、以前……同じように抜け出した3人組の1人。だから、私はあなたたちがここに来るだろうとは思っていたわ」
 美奈子はそう認めるとゆっくりと3人の事を見た。
「それで、これからが本番よ。貴方たちはこれから妖精になる……もう、ほとんど妖精ね。そうすると人間界の森羅万象に携わる事がたまにできるようになる。ただし」
 一度言葉を切ると美奈子は鏡のような目でそれぞれの目を射抜いた。

「特別な許可がない限り、人間界へ赴くことはできなくなるわ。それに、今人間界に居るあなたたちを知る人達の記憶から、消え去る。存在しなかったことになる。それでも、妖精界に居る?」

 沈黙が流れた。少年少女は、最後の選択を迫られていた。彼らはこれから、妖精となる。別の世界の、生まれた世界とは異なる世界の理に組み込まれる。それはつまり、“狭間の場”のように、両方という事ではなく、片方では存在が無くなることを意味していた。
「わたしは構わないって言ってるじゃない!」
 冬美が大きな声で宣言する。それに周囲に居た妖精たちが一気に沸き立った。未来の属性主か妖精王か、どちらかがほぼ約束されるほどの力の持ち主が妖精になると言っているのだ。

「俺も別に。向こうに思い残すことなんて……ねーし」
 気だるげな言葉に対して、最後の言葉に籠る意志力はすさまじい。決して楽しい人生ではなかったのだろう、と秋菜は実はあまり知らない竹中志希という少年の事を思った。
 志希がそう言えば、彼の周りを茶色い羽の妖精たちが地中から浮き出してくる。彼らもその言葉を待っていた。これから先の事を思っているのか、踊っている。

「秋菜、あなたは?」
 冬美が視線を投げかける。冬美は、秋菜が人間界の事を悪く思っていない事を知っていた。彼女は彼女なりに向こうの友人や家族を、心の底では想っている……と、理解している。
 そして何より。

 ここにいない、マーズに見つけられた存在でもある友人を大切に思っている事も、冬美は分かっていた。
「私は……」

 秋菜は、ゆっくりと目を瞑った。

 秋菜のまぶたの裏には、彼女の母親と父親、それに兄と妹が映る。恐らく自分の事を最後まで探してくれただろう父親。泣きはらした目でも気丈に振る舞っただろう母親。いつか見つかると希望を捨てていないだろう兄。自分の好きだったものを好きになってきてた妹は、自分の代わりに手入れを欠かさずにしていてくれているだろう。
 思えば、秋菜は自分の制約が「りんごを口にする」だったのは、自分が園芸が好きで野菜や果物を育てるのがとても楽しかったから、かも知れない……と思う。
 土を掘る感触、その土に水を流し込む感覚。太陽の光の元で頬を撫ぜる風。

 生きる喜びに満ちていた、世界。彼女はその世界とは異なる世界に、必ず生まれ変わる世界に足を踏み入れようとしていた。

 秋菜は、ゆっくりとまぶたを押し上げる。
「私は、あの世界も捨てたくない。でも、それはきっと、許されない」
(願いが最良の形で叶うとは、誰も言っていない。半分以上諦めていたし、覚悟はあったつもりだけど……失くしそうになるとすがりたくなる。それでも、私はすがっちゃいけないんだ……もう、それができる訳じゃないんだ)
「だから」
 秋菜は、ゆっくりと言葉を紡ぎながら、前を見た。

「人間界とは、別れます」

 一筋の涙が、零れ落ちた。
 別れと決意を込めた涙が。



2015.12.5 掲載