5章:妖精であるという事…5



 秋菜の言葉に、美奈子はゆっくりと頷いた。
「分かりました、3人ともこちら側に来るという事で、良いんですね……それでは、最後に」
 美奈子はすっと手を持ち上げた。

「もう貴方たちと関わることが出来なくなる2人に、何か言い残すことはありますか?」

 その言葉に、冬美と秋菜が目を見合わせる。志希はあまり気にしていないのか、どこ吹く風だ。
 この場にいない2人は、どこかにいるのだろうか、と首を回そうとしてもあまり思い通りに動かない。

「貴方たちの肉体も生まれ変わる時だから、あまり時間がないわ。“狭間の場”ももうすぐ綺麗に整い、この妖精界はこの泉と水流を持って、再構築される。そして『その時』が来れば、あの2人は自分たちが属す世界に戻り、貴方たちと肉体のある状態での接触はできなくなる。世界の理は、そうなっている」
 感情の無い眼差しをどこか虚空へと放ちながら、美奈子の口は淡々と言葉を吐き出していく。
「彼女たちの現状説明は無事に出来たみたいね。あとは人間界に戻るだけだわ……それで、何か言い残すことはありますか?」

 そもそもどこにいるのだろうか、と秋菜は思う。自分が見える範囲には、いない。

「あの2人……松葉さんと梅野さんは、ここにはいないわ」
 マーキュリーの言葉に、秋菜は首を傾げた。
「どういうこと?」
 とはいうものの、彼女の首はあまり動いていない。目線だけをマーキュリーに向けて秋菜は問いかけた。
「妖精界に、あの2人は入ることができない。“狭間の場”ですら、入ることが出来なくなる。その状況でも、おそらく……あの2人はあなたと桜木さんを案じているでしょう」

「それは」
 私も同じよ、と言う言葉を秋菜は飲み込んだ。同じはずがないのだ。人間と人間味を失う一方の秋菜では。
 それでも、彼女たちとこの先語らう事が出来ないというのは十分に衝撃だった。

「わたしからは特に何もないわ。春菜とケンカ別れにならなかっただけ十分だし、夏美の事はそうね……またどこかで会った時にでももっと知っていきたい、ぐらいかしらね」
 ふん、と腕を組んでそう言い切る冬美に、秋菜は小さく口角をあげる。いかにも冬美らしいその言葉の数々に、秋菜は安心したのだ。

 自分たちは変わるだろう。それは人間界に戻る2人にしても同じだ。だが、彼女たちの中には確かに、共に過ごした時間が、共に語らった言葉が残っている。
(遠く離れていても)
 思考がこぼれる。視界も狭まってきているようだ。自分たちは妖精として生まれ変わる。そのために今の肉体を捨てなければならない。だから、肉体を手放すのだ。

 その時、遠く、とてもとても遠い場所から、声が聞こえた。
 いくつもの壁を通り抜けたかのようにくぐもった、それでいてはっきりと理解できる、とてもとても小さな声が。

『秋菜ああああ!』
 耳を澄ませる。確かに、これは春菜の声だ。
 世界の壁をも越えるほど、熱い熱い想いが籠った、声だ。
『あたしは!あたしはいつまでも、あんたの友達だから!あんたがどこにいても!友達だからね!』

 いよいよ、秋菜は自分の肉体が崩れていくのを感じた。手先が、足先が、髪の毛が。
 崩れていく。形を変えていく。消えていく。

 なんと言えばいいのか分からない。それでも、唯一分かるのは、今持っている「自分」という器から、自分が変わるのだ、と言う事。
 自分と言う存在が、根底から作り変えられるのだという事。

 それでも、不思議と恐怖は無かった。その感情すらも忘れ去った可能性が無い訳ではないが、秋菜はそういうわけではないのだろう、と思う。
 春菜の想いがじんわりと胸の部分を熱くする。その熱が、自分の存在を、確認させる。

 秋菜の耳に、もう一度、小さな春菜の声が滑り込んだ。
『あんたがあたしを忘れても!あたしは忘れないから!いつまでもー』

 途切れていく声が、不意にどこから聞こえているのか理解する。そして秋菜は肉体を捨て去るその瞬間、首をその方向に向けた。
 秋菜の目に映ったのは、赤黒い空とその向こうに透けて見える正真正銘の青空。そして、地面から下へと、今まさに落ちていく春菜と夏美の姿だった。
 秋菜も肉体から羽化するように生まれ変わる瞬間、唇を動かし、言葉を発した。
「私も、春菜。忘れないよ。ずっと友達だから」

 最後に。最後に親友に届けと願う。
 この後生きている中で会うことは無いだろう親友に。それでも友達でいてくれるという、親友に。

 人の肉体から羽化した新たなる水なるマーキュリー配下の妖精は、通常の妖精よりも人の大きさに近しく、すらりと肉体の横に降り立った。
 かくして妖精界は、再び産声を上げる。

 新たなる妖精王の力が。新たなる属性主の声が。妖精たちを眠りから覚まし、命の息吹として力の流れを注いでいく。

 秋菜であった妖精は、最後に見た方向をずっと見つめている。そちらにも青空が広がり、生まれ変わったばかりのマーキュリー配下にある水の妖精たちが、人であった新しい妖精を迎える。
 彼女は一度ぱちり、と瞬きをすると、周囲に集まってきた人ならざる姿をする妖精たちの輪に加わるべく、ゆっくりと羽を動かした。

 妖精界は生まれ変わり、“狭間の場”も再生した。
 新たなる妖精も目覚め、世界は理の中を進む。

 彼らの住まう世界が生まれ変わり……また、営みの中を進んでゆく。
 それが、世界の意志だから。
 世界が許す限り、彼らは存在する。見えていなくとも、聞こえていなくとも。
 彼らもまた、生きている。



2015.12.19 掲載