私は図書室を後にすると、廊下を軽やかに走った。軽いはずだよ、自分で追い風を作りながら走ってるから。今、廊下を走るな、なんて言う言いつけはきれいさっぱり忘れてる。
忘れてたから、なのか。それとも、勢いをつけすぎたから、かも?
『パリス、前っ!前!』
ルルが耳元で叫ぶ。カイサの事で頭がいっぱいだった私は、そこで初めて顔を前に向けた。
「え?うわぁぁ!避けてー!」
「はぁ!?おい、パリス!」
どんっ
なんとかギリギリ曲がった廊下の曲がり角の向こうから、人が歩いてきていた事に全く気が付かなかった私は、派手にその人とぶつかった。
今、私の名前が呼ばれたから、知ってる人?
ぶつかった人を見ると、手に持っていたらしい書類やノートをばら撒いたロンドン先生がいた。
やば。うへぇ、やばい。
「サヘル空のパリス。廊下は走るところだったか?」
しりもちをついたロンドン先生が体勢を立て直しながら口を開いた。いやいやいや、怖い。ロンドン先生、怖い。
頼みの綱であるルルは、早々に私の髪の毛に隠れている。…裏切り者。
「…えーっと、ロンドン先生。これにはわけがありまして。」
「廊下は走っちゃいけないところだ、って事はいろんなところで言われてるよな?」
「あーっと、確かにいろんなところで聞く言葉ですけど、それとこれとは別の話で。」
「じゃあ、パリス。ここは廊下だな?あと、あのスピードから能力使ってたな。」
「そ、そうですかね。」
「ん、どうなんだ、サヘル空のパリス?」
ロンドン先生が怖い。普段怒るときはガッツリと怒鳴って怒るタイプだけど、じわじわ怖い。笑顔だけど、絶対おこってる。
なんだか、嫌な汗も流れてきた。確かに、私が悪いんだけど!
ニコニコ笑ってるのに怖いロンドン先生の様子に、私はついに折れた。というか、プレッシャーに負けた。
「すいませんでした!」
がばり、と頭を下げると、髪の毛に隠れてたルルが髪の毛からぽんっ、と落ちる。
『わ、わっ!』
あわてて私の髪に捕まるぐらいなら、自力で飛べば良いのに。引っ張られるから痛いんだって。
痛みに思わず眉毛が寄ったのがわかった。ルルのバカ。
ロンドン先生はそんなルルを見て、表情を緩めた。ふ、と息をつきながら表情が柔らかくなったみたい、な気がする。
廊下に散らばっていた書類やノートを集めるロンドン先生をさりげなく手伝ってご機嫌をとってみる。今は、特に時間をかけたくないから。出来るだけ早くこの場から離れてカイサのところに行きたいんだ。
「おまえがどこかに大急ぎで行こうとしていた、ってことは理解しているつもりだけどな、廊下で能力使って走るな。まったく、今回は見逃してやるけど、次は無いからな。」
元通りの様子でノートや書類を手に持ったロンドン先生はちょっと険しい顔をして私に釘を刺してくる。それに、大きく頷いた。
「はい、今後気を付けます!」
「気を付ける、じゃなくて、ちゃんとやらないと言え。」
「だって先生、やらないって約束してもやっちゃうことってあるじゃないですか。」
『バカパリス。』
「おまえ、そんなに居残り勉強したいか?おまえなら、いくらでも課題あるぞ?」
えーっと。私は正直に話したはずなのに、なんでルルはため息つきながら頭抱えてて、ロンドン先生に前言撤回(って、言うんだよね、前に言ったことを変える事)してくるの?
「私、何か変な事いいました?」
分からないから分からないらしく、素直に質問したら、さらにロンドン先生の両肩から力が抜けた。ルルも同じみたいで、今はふらふらと私の右側を飛んでいる。
「ルル、おまえ大変だな。」
『先生も大変ですね。』
…私がその「大変」の原因なの?ちょっと待ってよ、分かるように説明してよ。
「パリス、本当に分かってないみたいだから、あとでアテネやウィーンに聞いて理解しておくこと。これ、宿題として追加な。明日の授業の後聞くからな。」
「え、え!?ロンドン先生!?」
「ほら、急いでるんだろ、行った行った。」
急に元気がなくなりました、って言う感じのロンドン先生がいらない鳥を追う掃うみたいな手の動きをする。なんか納得いかないけど、とりあえず、行っていい、ってことだよね?
「ロンドン先生、ありがとうございました!」
私はまたがばっ、と勢いよく頭を下げ、それからそのままサイドステップでロンドン先生を避けると、また、廊下を走り出した。…今度は、能力は使ってないよ!
「だーから、廊下は走るなって。」
「はーい!」
最後に大きなロンドン先生の声に元気に返事しながら、私はそのまま走り続けた。
◇
「カイサ、ごめんね、久しぶり!」
病院棟の獣医室に行くと、ダッカ先生が温かく迎えてくれた。
「サヘル空のパリス、慌てないでください。」
くすくすと笑いながらやわらかい声を掛けてくれるダッカ先生。私はその声を聞くまでダッカ先生の事をすっかり忘れてた、みたい。
「あ、ダッカ先生!すみません、なかなか来れなくて。」
「いいえ。あなたのチームメイトたちが時折顔を見せていましたから、カイサもそれほど寂しかったわけではないでしょう。」
年配のいいおばさん、って感じの獣医先生なんだけど、話してるだけですごく和むんだよね。すごいよねー、ダッカ先生だからこそ、なのかな。
「それでも、私が来てなかったから、それには悪いなーって思っちゃって。」
「じゃあ、元気になってきているカイサの顔でも見て行ってあげてください。」
「はい!」
ダッカ先生のやさしい言葉に大きく頷きながら、私とルルは奥の部屋にいるカイサのもとに向かった。
カイサは大きな鳥だから、大きめのケージに入っていた。ずいぶんとしっかりと体を支えられるようになってきてる。まだ完全に包帯とか取れたわけじゃないけど、元気になってきてるのがわかって、まずはほっと一安心、かな。
一緒に来てくれたダッカ先生がカイサのいるケージの扉を開く。そして、その中からカイサを抱えて出すと、床におろしてくれた。
床におろされるや否や、私に向かってくるカイサ。私も、負けじと床に膝立ちになって、抱きとめる。
「今まで来ないでごめんねー!」
『カイサ、元気になってきてるね。よかったー。』
羽を痛めないようにやさしく抱きしめると、カイサガ“くいーる”と鳴いた。かわいい、かわいいよカイサ。
『去年の事、まだ怒ってるの、カイサ?』
「去年の事?」
ルルがカイサの話を聞き始めたみたいで、その問いかけた言葉に私が聞き返した。去年って、何かあったっけ?
『そうそう。カイロがいたずらしたじゃない。それ。』
「あ。そういえばそんなこともあった。」
『パリス、覚えておこうよ…。』
ルルの言う事も確かに一理あるんだけど、何か忘れちゃうんだよね。あはは。
「なんかさっきカイロが怒ってたのって、もしかしてそのせい?」
くいー、とカイサが鳴くのをルルが通訳してくれるのを待つ。
『“あいつらになんて教える事ないし。”だって。』
「確かに、むかつくけど、もうそんなことしないって。」
『そうそう。あんまり深く考えないでいいよ。もういたずらとかさせないから。』
私とルルは口をそろえてカイサをなだめた。確かに、昔からカイロとカイサは相性最悪なんだけどさ…。
なだめられたというか、落ち着いてきたカイサに、ルルは早速質問を投げかけた。そういえば、お見舞いがてら話を聞きに来たんだよね。私忘れてたわ。
『カイサ、あのね。カイサが言ってる“第四世界”についてちょっと教えてほしいんだ。』
ルルの言葉に、小首をかしげる仕草をするカイサ。長い首がしなって、きれい。
「ほら、“第四世界”になんで行っちゃったのか、とか。どこにあったのか、とか。…どこかにあったから行ってきたんだよね?」
私も付け足す。ルルほどきれいに説明できるわけじゃないけど、私も知りたいことだし。
質問を最初に発したルルに顔を向けるカイサ。澄んだ紫の瞳に、ルルの顔が写り込む。そして、カイサは“くいー、くいーる”と鳴き始めた。床に直に座っちゃった私の腕の中にいるカイサの鳴き声に真剣な顔をして耳を傾けるルルの邪魔はしちゃいけない。私は、ゆっくりとカイサの首筋を撫で続ける。
正直、ちょっとルルが羨ましい。だって、ここで話していることが全部わかるわけじゃない。私はルルに話して貰うまで、なんて言ってるのか分からないんだ。それを考えると、やっぱり妖精って存在が羨ましいと思うんだよね。
しばらくして、カイサに向かって大きく頷いたルルは私の方を向いた。
「で、なんて言ってるの?」
『うーん、カイサは完全に迷い込んだみたい。どうやって、ってのは良くわかんないみたいなんだけど。…何かに追いかけられて「りくち」の方まで行っちゃったんだって。今まで行ったことが無いところだった、って言ってる。』
「何かに追いかけられた、ってそっちも気になるけど。」
『んもう、パリス。まだ話には続きがあるんだって。』
「あ、ごめんごめん。」
あちゃ、いけないいけない。注意力散漫って言うんだよね、こういうの。
『そのまま逃げてたら、りくちに大きな口が開いてたんだって。』
「口?」
えっと、口?人とか動物とかの口?りくちに開いてる口って何よ?
『ともかく、その口の中から風を感じたから、逃げるためにもその口の中に入って行ったんだって。』
「なんかの場所だよね?」
『三世界伝説ではさ、4人目の神様が大地に口を開けさせてるんだよね。だから、そういう事なのかも?』
「で、その中であの木の枝を見つけたの?」
『そう見たい。』
うーん、何か、場所なんだよね。実在するんだよね。…そりゃあそうか、カイサが行って帰ってきたんだから。じゃあ。
「じゃあさ、その口のまわりの様子を聞いたら、その口が何の事か分かるかな?」
私は結構何気ない感じで提案してみたんだけど、ルルの反応がすごかった。がばっ、って顔を私の方に向けてきて、ぴしっ!って指をさしながら口を開いて。
『それだー!すごい、パリスが今日は冴えてる!』
私が逆にびっくりした。言いながら飛び回って、なんか、図書室で飛び上がってたみたいな感じかも。
「落ちつこ、ルル。カイサがちょっとびっくりしてるから。」
私も苦笑って言うのかな、ルルをちょっと困ったなー、って視線で見ちゃってるけど、それ以上にカイサが引いてる感じがする。そりゃあ急に大きな声出したりしたら、誰だってびっくりするよね。
『あ、ごめん。えっとカイサ、その口の周りの様子をできるだけ詳しく聞かせてほしいんだ。』
カイサはいきなり聞かれて面食らってるのかもしれない。もしかしたら、一生懸命思い出そうとしてくれたのかもしれない。それが全部わからない、推測でしかないのが、ちょっと寂しかった。
たっぷり何分か考え込んだみたいなカイサは、ゆっくりと鳴きはじめた。それを真剣に聞いていくルル。私はまだ床の上でカイサを抱えてる。…ダッカ先生はずいぶん前に事務室の方に戻ったみたいだよね。
あの木の枝が何なのか、もしかしたらとんでもない大発見なのか。それこそ、りくちの科学者とか歴史学者に頼まないといけないレベルの物なのかもしれない。
じわじわと、私の中でことの大きさを実感として感じ始めた。だって、もしかしたら、とんでもないもの見つけちゃったかもしれないじゃん。
気が付いたらカイサの鳴き声は止まっていた。つまり、ルルに話終わったんだ。
「どう?」
軽い感じで聞く、のは私の性格だからだなー。
『えっとね、一方には青い山、一方には黒い川、一方には緑の森があって、もう一方には黄金の草原が広がってたんだって。』
「青い山、黒い川、緑の森と黄金の草原、ね。その真ん中に口があったの?」
『山のふもと、だよね。』
ルルの確認に、“くー”と鳴いて同意するカイサ。そんなカイサをもう一回撫でた。
「じゃあ、カイサ。そろそろ行くね。」
『え、そろそろ時間?』
「そうですね、そろそろ面会時間は終わりです。」
急に第三者の声、まあダッカ先生なんだけど、が聞こえてばっと振り返る私とルル。その様子にくすくす笑いながらダッカ先生はカイサを私の腕から預かった。
「あらあら、床にずっと座っていたの?」
「移動するのが面倒くさくて。それに、床の生活慣れてますし。」
「ああ、サヘル空は床の生活様式でしたっけ。」
「はい。」
立ち上がってそのままダッカ先生とカイサに見送られる形で、部屋のドアに向かう。
「じゃあダッカ先生、また来ますね。」
「はいはい。」
「カイサも、また来るね!」
“くいーる”
2人にそのままの形で見送られて私とルルは獣医室を後にする。そのまま食堂には向かわない私に、ルルは怪訝な顔をした。
『18時に食堂って言われたじゃん。移動時間考えたら、あんまり時間ないよ?』
「それでも、りくちの地図と三世界伝説の本を借りないと。」
この2つが無いとカイサの話の信ぴょう性が分からないうえに、場所まで特定できないんだ。
私とルルは、もう一度図書室に向かった。
2012.11.17 掲載
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